ブレーメン
ヨルシカ
鏑吉丸
金がない。目的がない。居場所がない。存在価値がない。
そんな人間がすることは一つだ。
歩く。歩き続けてエネルギーを無駄にして過ごす。何かに追い立てられるように歩く。決して振り向かず、出来るだけ立ち止まらずに、時には同じ所をぐるぐると回りながら、あてもなく歩く。
空腹や疲労はもうとっくに感じなくなった。渇きはあるが、ゴミ箱脇に捨て置かれた誰かの飲み掛けのお茶を持ち歩いているから大丈夫だ。
風呂は数日前にネットカフェで入ったきり。体臭は諦めた。伸びた無精髭はマスクで隠して、目深に被ったキャップで目元を覆い、俯きながら歩き続ける。時間の感覚もない。視界だけが夜だと告げている。
どれほど歩いた頃か、顔を上げたら見知った場所だった。
甲州街道沿い、新宿駅東南口前。
すれ違う人種も言語も多様で耳障りだ。それをかき消すほどのデカい音も鬱陶しい。思わず顔を上げた先、マイクを通して若い男が言う。
「心を込めて歌います、聴いてください」
周囲に人だかりができている。聞いたことがあるような無いような、曖昧なメロディにのせて男は歌い出す。
そういえばここはいつもストリートミュージシャンがいたな、と思い出した。今俺を追い越した背広の男のように、あるいはすれ違ったカップルのように、俺も何度もここを通った。顔を上げて、小綺麗な身なりで、誰かと談笑なんかしながら。
過去は俺を惨めにするだけだ。慌てて歩調を上げる。
男の歌声を振り切ったと思ったら、今度は女の歌声が襲ってきた。囲いの数はさっきの男より少ないのに、勝ち誇ったような顔で歌ってやがる。
急に、握り込めた拳を振り翳したくなった。俺が奇声をあげて乱入したら、あいつ泣くかな。ご立派なマイクスタンドやスピーカーなんかを全部置いて逃げ出す様はさぞ愉快だろうな。
止まりかけた足を、しかし再び前に蹴り出した。
そんな事をしたって意味はない。
小さなため息をマスクの外に吐き出して、ついでに喉を潤した。そうして俺はまた、右足と左足のつま先を見つめる事に没頭しようとする。
が。
「お〜おはら〜! お〜おはらきょ〜うすけぇ〜!」
その歌声に、思わず足を止めてしまった。ノーマイクの雑な地声と適当なギターが耳障りだからじゃない。そのストリートミュージシャンが無茶苦茶なメロディで歌っているのが、俺の名前だったからだ。
大原恭介。
この名前は数日前、全国ニュースで報道された。だから誰が知っていてもおかしくはない。おかしくはないがしかし、歌うってのは一体どういうつもりだ。
電源の切れたスマホを取り出して、さも着信があったかのように耳に当てた。片手越しに歌う男を見る。
馬鹿の一つ覚えみたいに「オオハラキョウスケ」だけで歌う男の顔には、薄らと見覚えがある。
アイツ誰だっけ。靄がかかった脳みそを掻き分けて記憶を辿る。
どこにでもいそうな特徴のない男。アコギにパーカーにメガネ。ギターケースを開いて置いただけの足元には名前も宣伝看板もない。
なのに俺は気付いてしまった。高校時代のクラスメイトだ。3年間一緒だった。
奴の名前は、確か柿谷だったか。出席番号が前後だったから、毎年4月と5月の2ヶ月は俺の後ろの席にいた。入学当初はよく言葉を交わしたものの、テンションや好みが合わなくてそれ以上仲良くならなかった奴だ。
後ろの席なのによく顔を覚えてたな。自分に感心しながら奴に背をむけ距離を取る。往来を挟んだ奴の真向かい、ショーウィンドウに背を預けて通話中のフリをする。
奴はまだ「オオハラキョウスケ」で歌い続けていた。最早呼びかけるような声になっている。いい加減にしろと睨みつけたら、雑踏越しに目があってしまった。
慌てて逸らしたがもう遅い。柿谷は歌とギターを唐突にやめた。逃げる覚悟を決める。けれど柿谷はその場から動く気配もなく、何か言いたげな目で再びギターを構える。
綺麗な和音がつながっていく。今度は無茶苦茶な曲ではないようだと気づいた途端、柿谷は大きく息を吸った。
「す〜ずやかに流れる本多川ぁ〜 我ら希望のひ〜かりとな〜りて 多摩の大地にめぶ〜く こころざし〜」
嘘だろ、と思わず声が出た。
こいつ、新宿駅前で校歌歌い始めたぞ。俺らが卒業したのなんてもう、10年以上も前なのに。
ギョッとしてしまっても、心は素直に音をなぞる。何度も歌わされたメロディと歌詞が、俺の中にちゃんと残っている。
そういえば高1の時、音楽の授業でまず習ったのが校歌だった。ご丁寧に男子と女子でパート分けがあり、綺麗に歌えるまで何度も練習させられた。柿谷は特に音痴すぎて音楽教師のマンツーマン指導だったことも思い出した。
あの頃に比べたら随分歌えるようになった。ギターの伴奏も完璧だ。自分でコードを起こして練習したのかと思うと、くだらなくて笑っちまう。
柿谷は歌い続けた。道ゆく人に「何これ、校歌?」と笑われても、俺をまっすぐ見て歌い続けた。
俺が忘れた三番の歌詞まで完璧だった。でも高音は全て外していた。
何故ここに柿谷がいて、何故ギター持って歌っているのか。
何故俺の名前を歌って呼び止めたのか、何故そうまでして聞かせる曲が校歌なのか。
全くわからない。いっそ迷惑なほどに不可解だ。
俺はお前の下の名前も思い出せないのに、どうしてお前が俺を見つけるんだ?
柿谷は校歌を全部歌い切った。メロディが無くなっても、俺たちの間にある雑踏は途切れる事なく流れ続ける。
しばらく雑踏越しに見つめ合って、柿谷はやっと小さく笑った。
もしかしてあいつ、「俺は柿谷だ」って気付いて欲しくて校歌なんか歌ったのか?
どこか満足げな奴の表情がそう思わせたが、確かめる気にはなれない。
そして柿谷はまた、ギターを鳴らした。「ねぇ」と素っ頓狂な声で歌い出す。
軽快なリズム。歌は下手だが、ギターはちゃんと弾けるらしい。
知らない曲だった。けど、よくできた曲だった。誰かのカバーかもしれない。
歌詞を追っていたら、柿谷が不意に踊り始めた。
ギターを抱えた体を揺らす。下手なステップで音にのる。
柿谷は笑っていた。笑いながら、踊りながら、俺を見て歌った。
死ぬな 生きろ 笑え 歌え。
そうして柿谷は、満足そうに最後のコードを鳴らした。
立ち止まる者は誰もいない。歌を聴いていたのも、多分俺だけだ。
だから俺は手を打ち鳴らした。ギターケースに投げ入れてやれるものなんか何もないから、せめて拍手を贈った。
柿谷は嬉しそうに笑った。そして、口パクでこう告げた。
「おまえもがんばれ」
数日前、俺は横領の容疑で指名手配となった。
友人も家族も同僚も、誰もが俺を責め立て罵り、離れていった。
だから死ぬつもりだった。勇気が出るのを待っていた。更生するつもりなんてなかった。投獄なんて上辺だけの儀式より、クソ惨めに死んだ方が会社もせいせいするだろうと思った。
この地球上で、俺を真っ直ぐ想ってくれる奴なんかもう、一人もいないと思っていた。
まさか俺のことを覚えていて、道端で気付いてくれて、妙な方法で励ましてくれるような人が残っていたなんて。
不思議と軽くなった体で再び歩き出す。
目的地が見つかった。見失っていた存在意義も。
ムショを出られたら真っ先にやることも決めた。柿谷の下の名前を調べて、連絡をとってみたい。
マスクの中で小さく歌いながら、俺は歩いた。
まともに歌ったのなんて高1以来の校歌を、何度も間違えながら。