怪物
YOASOBI
無名紡戯
『人を殺したことがある。
直接ナイフを刺すとか突き落とすとかそんなことはしてない。
でも確実に、そいつのことは私が殺した』
ひそひそと、声がする。いつだって人の不幸は蜜の味。ちょっとした悪い噂、実はあの人は、この人の恋人が、お子さんが、伴侶が、身内が、友人が、どうのこうの。同僚のプライベートに出てくる人物なんて一生関わらないであろう他人だろうによくもまあ、飽きもせず。
聞きたくないなあ、と思いながら仕事に集中してるふり。これが日常。
そういう話からどこまでも遠ざかろうとする私と、そういう噂を最低限知ってるけど深く入らないことで色んなものを誤魔化してる奴と、全部把握してる奴。狂ってんのは誰だろうな。同じ狂気なら、ちょっとでもきれいに見える方がいい。そうしないと、あの子の傍にいるのにふさわしくない。
あなたはどう思う、なんてお局様の声に「えっ何のことですか?ごめんなさい聞いてなかったです」と申し訳なさそうな声色を出す。談笑に入るのも仕事の一つよ、なんてうざったい説教に「そうですよね」と当たり障りない言葉と謝罪をしおらしく伝えれば今度から気を付けてよ、と言いながらも上司が入ってきたことでお喋りの場が解散していく。
顔色を見ないとできない談笑ならするんじゃねえよ、と悪態を内心で吐き捨てる。声に出さないあたり、同じ穴の狢だから敗北感が胸を満たして虚しくなった。
『匿名掲示板に男が彼女を弄んだ証拠を、彼女が映ってない範囲で片っ端から晒した。そいつに騙された女は他にもごまんといたから、証拠の内容には困らなかった。ふらっと訪れた旅行先のネカフェで晒したので、私の身元は今でもバレてない。匿名掲示板からSNSへ誰かが晒した。そこからはあっという間だった。
結果、男は自殺した。ネットに飛び交う罵詈雑言と、弄んだ女たちの復讐と、自分の伴侶と子供からの冷たい言動には心が耐え切れなかったらしい。
それを聞いても、何も罪悪感はわかなかった。だってあの美しい生き物を弄んだ罰を受けただけだもの。ただ、ざまあみろとだけ思った。はっきり言おう、スカッとした』
「乾杯」
そんな合唱から始まる会社の飲み会。楽しそうな声。無礼講と言う役員の声。盛り上がって、まるでこの世はすべて最高とすら思えるような雰囲気が流れる。一種の信仰に近い狂気を感じるから、好きじゃない。
媚を混ぜた甘い声の私がセクハラ親父の伸びた手をやだあ、と言いながら軽く払う。彼氏に怒られちゃいますと嘘の理由を言えば心が狭い男だねえと酔いに任せた声。そんなことない、お互いに大好きだもん。なんて酔ってるから幼く拗ねるんです、みたいな演技で躱しながら仲のいい先輩の所に逃げ込めば、彼女は目線だけで私がどうしたいのかわかって、ちょっとこの子の彼氏に怒られるの私なんですけど、とぷりぷり愛らしく怒った。
持ってるお酒は芋焼酎のロックだけど大層かわいく見えた。ありがとうございます、と言えば「面倒だよねあいつ」といつもの口調で返された。労いに乾杯を一つ。先輩が好きなつまみをいかにも自分のですと言わんばかりにとって、先輩が取れる位置に置いた。ありがと、と軽い声。正解の行動が取れた感じ。
ああ、そういえば『いもしない彼氏』を理由にするのは、そろそろ時期的に結婚を促されるような気がする。いい加減通用しなくなりそうだから次の手を考えなくちゃ。先輩にも相談して、不自然じゃないのを……。
あー、頭おかしくなりそう。
『あの子は男が自殺したことにショックを受けていた。そんなことないとか、優しいところもあるとか、そういった言葉を載せてネット上でもかばったら、寄り添っていたら、彼はもしかしたら死ななかったかもしれない。そう言ってはらはら美しく泣いた。
その時、初めて後悔した。
私は、このあまりにも優しい世界で生きた純粋すぎる彼女の気持ちを踏みにじったのだ』
心に怪物を飼っている。そいつのせいだ、というのは簡単だ。けれど、そいつだって私なのだから、結局は「私がやりました」以外の何でもないんだよなあ。
真面目に生きている方だと思う。寝て起きて仕事、たまに遊びを繰り返す人生。いかにも普通の範囲。平均のカテゴリー内をふらふら進んでいる。異常という場所へは行かないまま、でもたまに近くをふらついて。そうして、おおむね真っ直ぐに人生を歩いてる。
でもそれって、美しいとか、正しいって呼ばれる生き方なのかがわからなくなる瞬間がある。例えば目の前の彼女が泣いてるのを止められるのがわかってて何も動かずただ彼女を慰め、別れればいいとありきたりな言葉を言っている時。
私、なんで何もしないんだろう。そうやって狂気に足を突っ込んだら、あっという間に動けたのだから、私、実は怪物側だったのかもしれない。
『証拠集めも晒上げも機械一つで、簡単にできた。』
正義ってなんだろう。思いやりってなんだろう。優しいってなんだろう。わからなくなる。倫理と感情と一般常識と世間が混ざったら正しさが何かなんてわからない。
『荒れていく掲示板を見て止めもせず、もっともっと荒れてくれと願いながらシャットダウンしたパソコンに映る私は、歪に笑ったまま。こんなひどいこと、私がやるなんて。そうショックを受けながらも弧を描いた唇と、悦に細まった目は変わらない。』
ほんと、怪物みたい、と自嘲した。
「ねえ」
はっと顔を上げる。ちょっと前の記憶を思い返して、思考に没頭していたのだ。
「もー、聞いてる?」
笑う彼女が「さては会社の飲み会で、すでに酔ってるな~?」と楽しそうにしている。そうかも、と笑って運ばれて来た料理に手を付けた。空気を読むのに徹している会社の飲み会はどうしたって食べる量が減るし、お酒はチェイサーでアルコール抜きをしながらの癖が付いた。でも彼女の前では、気が抜けるから料理も美味しく感じる。これも美味しいよと勧められるままに口に入れれば花がほころんだように笑う。ああ、本当にきれい。
その顔があの時のように涙で濡れないでほしいと願う。こうやって笑ったままでいてほしいなあと心の底から思う。その傍にずっとずっと自分がいたいと望む。そのためには、私の中の怪物は多分ふさわしくない。怪物に頼る私はまだまだ弱い。だからこそ、強くならないといけない。この日常を守るのに困らない程度に、色々な方向で。耐えるのも、ただ寄り添うのも、きっと一種の強さだから。そういうものを身につけなくちゃ。努力あるのみ。
「ねえ」
「なあに?」
「だいすき」
「私も~!」
そうやって怪物の私を超えられるくらい頑張るから。傍にいてね、ずっと。