ただ君に晴れ
ヨルシカ
遠子
明日、姉が結婚する。
姉と言っても実姉じゃなくて、5つ上の従姉妹。
『ちぃちゃん!』
名前に「ち」なんて一文字も入っていない私を、「小さいからちぃちゃん」と呼ぶような人。いくつになっても可愛らしい少女のような笑顔を見せるお姉ちゃんは、私の憧れで、大好きな人だった。
そう、大好きな人。誰よりも近くで見てきたのに、大学進学を機に村を出たお姉ちゃんが、どこの誰とも知らぬ男を連れて帰ってきた時は流石に血の気が引いた。だってその時、彼女にとって私は『ただの従姉妹の妹』に過ぎなかったのだと改めて思い知らされたのだから。
「……あつ」
感傷に浸る私を嘲笑うかのように燦々と照りつけてくる太陽が、セーラー服から無防備に晒された手足を焼いていく。少しでも身を縮めて、陽射しから腕を守りながら日陰を求めて畦道を歩く。延々と続く一本道には私の他には誰もおらず、ローファーが砂利を踏みしめる音と遠くで鳴く蝉の声だけが耳に届き、脳内を掻き回していく。
『見て、ちぃちゃん。夏祭りあるんだって』
畦道の途中、いつ建てられたのかわからないバス停の待合室には、これまたいつ貼られたのかわからないほど風化した夏祭りのポスターがひっそりと存在していた。そう言えば、お姉ちゃんに誘われたことがあったな。あの時は確か私が風邪をひいたせいで行けなかったっけ。
ちなみにその翌年にはお姉ちゃんは村を出てしまったから、それが2人きりで行ける最後の機会だった。今思えば、這ってでも行くべきだった。きっとお姉ちゃんの浴衣姿は、あの場の誰よりも綺麗だっただろう。
「……あ」
待合室の奥。古い木の壁に貼られた夏祭りのポスターにばかり目を奪われていたけど、よく見るとそこには子ども達が書いたのであろう落書きがたくさんあった。
その中に、見覚えのある文字。
『来年は一緒に行きたいね』
高校生にもなってこんなとこに落書きしちゃダメでしょ、と当時のお姉ちゃんにツッコミを入れながら、その文字を指でなぞる。無人のバスの待合室の中で、湿度でしっとりと湿った木の感触だけが鮮明で。
「その来年が叶わなかったのは、お姉ちゃんのせいだよ」
と、ここにいない彼女の残像に向かって悪態を一つ。どうせお姉ちゃんにはもう何も届かないのだから、これくらいは許してほしい。記憶の中のお姉ちゃんは『ごめんね』と言って笑っていた。
そうしてしばらく誰もいない待合室で過去の残像に浸っていると、スカートのポケットの中でスマホが震えた。着信を知らせるそのバイブ音に、現実に引き戻される。視線を壁の文字に戻しても、もうそこにお姉ちゃんはいない。
仕方なくスマホを取り出して、液晶画面に表示された母の名前に肩を落とす。
「はい」
『アンタ今どこ?』
「バス停」
『お姉ちゃん、もうとっくに着いて待ってるのよ?』
「……もうすぐ帰るよ」
早く帰ってきなさい、と急かす母の奥で、懐かしい笑い声がする。ずっと聞きたかったはずのその声は、私の知らない女の人のものに聞こえた。
電話の向こうでお母さんとお姉ちゃんの話し声がする。私はそれを聞きながら、切るに切れないままぼんやりと田園風景を眺めていた。
『もしもし? ちぃちゃん?』
完全に意識を遠くに飛ばしていた私は、突然のことに驚いて固まってしまう。どうやら電話の向こうの相手は、いつの間にかお母さんからお姉ちゃんに代わったようだ。
「……はい」
『ふふ、びっくりした?』
私の反応が遅かったから、と楽しそうに声を弾ませるお姉ちゃんはどこまでも無邪気だった。まるで五年前に戻ったかのような感覚に、先程までの鬱々とした心持ちは僅かに晴れた。しかしそれも束の間のこと。私の思い何ぞ知る由もないお姉ちゃんは、嬉しそうに声を弾ませながら話を続ける。
『今ね、ちぃちゃん家に彼も来てるの。ちぃちゃんのこと話したらぜひ会いたいって』
彼。お姉ちゃんの旦那になる人のことは、母から何となく聞いている。落ち着いた好青年だと、親戚みんなして褒めていた。でも私はそんなこと知ったこっちゃない。どうでもいいのだ。私からお姉ちゃんを奪っていった人のことを好きになれる自信なんてなかったから。
そんな子どものような葛藤で胸の内がぐちゃぐちゃになりながらも、どうにか平静を装って相槌を返す。もうすぐ帰るとは言ったけど、今この顔で帰ったら驚くに違いない。それくらい、酷い顔をしている自覚はある。
「……お姉ちゃん」
『なに?』
「今、幸せ?」
私の突然の質問に、お姉ちゃんは一瞬黙って、それから小さく笑う。言葉にしなくても、いま彼女が幸福であることを理解するには十分すぎた。その先の言葉を聞きたくなくて、返答を遮るために私は「あのさ、」と口を開く。
「……結婚、おめでとう」
『ありがとう、ちぃちゃん』
電話の向こうで、お姉ちゃんが笑った気配がした。見えないけれど、その笑顔はきっとあの頃のまま。無邪気で、無垢で、可愛らしくて、誰よりも綺麗に笑うお姉ちゃん。そうであってほしいと願うのは、ワガママになるのだろうか?
変わらない人間なんて、いないのに。
「……じゃ、また後で」
一方的に電話を切り、スマホを乱暴にポケットにしまい込む。畦道を照り付ける太陽を一睨みして、私は勢いよく駆けだした。
今までずっと殺し切れなかったお姉ちゃんへの思いを、誰にも言えなかった初恋を振り切るように走る。途中何度か転びそうになるのをどうにか踏みとどまってがむしゃらに前へと進んで、辿り着いたのは廃校になった小学校。
私が初めてお姉ちゃんと出会って、好きになった思い出の場所。
「はー……はー……」
ずっと、あの時のままでいたかった。私の、私だけのお姉ちゃんでいてほしかった。
「……ぅ、ふ……おねぇ、ぢゃん」
走ったせいで滴り落ちる汗に混じって、涙が溢れる。
最初は好きなだけでよかった。でも、一緒に過ごすうちにその思いが段々と大きくなって、それだけじゃ足りなくなってしまった。振られてしまえばすっきりと終わらせられたのかもしれない。けれど嫌われるのが怖かった私は好きだなんて言えないまま、お姉ちゃんへの恋を飲み込んだ。そして、私の恋はひとりでに終わりを迎えた。
これでよかったのだと自分に言い聞かせて、物わかりの良いふりをしていた。だけど、
「……っ、すき、だいすき……」
一度零れ落ちた言葉は、誰に届くでもなく夏の夕闇に溶けていく。
固く閉ざされた門扉の前で蹲り、膝を抱えて小さくなる。丸くなった背中を、思い出の中のお姉ちゃんが優しく撫でてくれたような気がした。
ごめんね、お姉ちゃん。あの月が昇る頃には、あなたの望む可愛い妹に戻るから、もう少しだけあなたのことを好きなだけの私でいさせて。
『ちぃちゃん』
そんな私の甘えに応えるように、お姉ちゃんの残像が笑った気がした。
……あーあ、嫌になる。本当に。