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靴の花火

ヨルシカ

秋助

 

 幼なじみの杠が交通事故に遭ったのは高校三年生の夏休み前だった。
 短距離走の練習中に駆け上がっていた坂道の頂上で飲酒運転のトラックに轢かれ、一命こそ取り留めたものの両目の視力を失ってしまう。
 伴走者と一緒にブラインドマラソンに臨む道もあったのかもしれない。でも、杠は走るのと同等に過ぎ行く景色を眺めるのが好きだった。朝焼け、夕暮れ、夜更けを纏う瞬間が。だから視力を失ったとき、杠は夢を諦めてしまったのだ。
 小学生のとき、杠は踏むと光る靴を嬉しそうに履いていた。それが走ることに興味を持ったきっかけだと話していたのを思い出す。
 僕は父の持つフィルムカメラを勝手に持ち出して、走る杠を綺麗に撮ることが趣味になった。最初は下手だったけど次第に芯を捉えていくのが楽しかった。
 僕の撮った写真を杠が確認してフォームの調整をする。より洗練された走り方をまた僕が撮る。もちろん、動画の方がいいことはお互いにわかっているけど。共同作業のように感じて、少なくとも僕だけは緊張していたのを覚えている。
 足に羽が生えていると紛うほど軽やかに走る杠は、そのまま空を飛んで宇宙にまで飛び出す勢いだった。不安も、しがらみも、重力すら杠の前では意味を成さない。だからこそ、足が不自由ではないのに走れなくなることが残酷だった。
 杠は白杖を持たない。踵部分にギザギザの拍車が付いた靴で地面を叩き、反響定位――エコーロケーションを利用して周りの景色を『見る』ことができるそうだ。走れなくなっても足に意味があるようにと、靴を視覚代わりにしている。
 視力を失ってからというものの杠は本を読むことが多くなった。
 点字図書にふれるたどたどしかった杠の人差し指は、すぐに紙の上を走るくらいの速さになっていた。曰く、文字が電光掲示板のように流れるそうだ。
 振り仮名が記載されている点字図書を一緒に読んだことがあるけど、杠のページを捲る速度には付いていけなかった。それでも、僕が指の先で景色を収める動作も、杠が指の先で光景が浮かぶ感覚も同じに思えてなんとなく嬉しかった。
 杠が走れなくなった今でも、いや、だからこそ写真を撮る機会が多くなった。
 季節も、街並みも、空模様も、心すら時間が経てば変わっていく。
 いつか杠の視力が戻ったときに、今あるこの景色が色褪せないように。


「ねぇ、ねぇ」
 杠の声で意識が現実に引き戻される。何も反応がないことに不安を抱くのか、杠は視力を失ってから繰り返し声をかける癖が付いていた。
「ごめん。ちゃんといるから」
 大学四年生の夏期休業も終わる頃、僕達は川沿いの草原に集まった。
 お互いの未練を灰にするために。
 僕は今まで撮り溜めた写真を、杠は光らなくなった靴を焚き火に投げ込む。
 杠のことを僕はどこか『かわいそう』という気持ちで接していたのかもしれない。過度に心配して、過保護に手を貸して、過剰に気を使う。
 そういった憐れみが杠をくるしめていたことも知らずに。
 押し入れの中に閉まってあったフィルム写真は劣化して虫食いのような状態になっていた。今にして思えば、杠が視力を失ってから僕は僕自身の瞳より、カメラのレンズ越しに杠を覗く時間の方が多くなった気がする。
 俯く杠の表情を直視するのがこわかったのだ。
「大切なものを燃やしているはずのに音だけは心地いいのね」
 パチ、パチ、と僕達の思い出が灰になっていく。
 写真の灰が風に舞って靴の先に落ちる。ジッ、と火花が散った。
 散り際が美しいのは命も、花も、炎も同じなのかもしれない。
 何か言わないと杠を不安にさせてしまうのに、開いた口の行方がさまよう。
 どんな言葉も、どんな表現も、杠には届かない気がした。
「私ね、君の顔を忘れるのがこわいの」
 これから先、僕と過ごした風景より光を失った時間の方が長くなる。
 空の青さや夕暮れの悲しさを、いつか杠忘れていくのだろうか。
 美しい風景を覚えても、目の見えない杠に伝える言葉を持ち合わせていない。
 どれだけ写真に残したって、像を結ばなければ映ってないにも等しいのだ。
 春になれば僕は普通の社会人に、杠は遠い地で点字図書館の司書として働く。僕が適当な四年間を過ごしている間に、杠だけが将来を見据えて勉強していた。
 なんとなく、もうお互いに会うことはないのだろう。
「ねぇ、ねぇ。私達はさ――」
 何か言おうとして、すぐに口を塞ぐ。
 見えないはずの杠の目が、何よりも雄弁に終わりを物語っていた。


 杠との最後の夜から何年が経っただろうか。
 夏も終わりに差し掛かる頃、街では花火大会が催されていた。
『夜に浮かぶ花園と空中遊泳』
 国内最大級の観覧車から覗く花火は思うほど綺麗なものではい。
 近くで見るより、届かないからこその美しさがあるとでも言えばいいのか。
 いつでも参加できると思って結局、最後まで杠と眺めることはなかった。
 来年になったら、再来年になったら。夏なんて永遠に来ないのに。
 カメラを構えてすぐさまレンズから目を離す。
 シャッターを切る音と、靴の拍車の音が重なっては手が震えてしまう。
 思い出の中の杠はいつも笑った表情だった。いや、喜ぶ顔も、怒った顔も、悲しむ顔も、楽しそうな顔も、本当はもっと色んな表情を浮かべていたのかもしれない。ただ、僕が都合良く杠の笑ってる顔だけを切り取っていたのだ。
 杠の心に巣くう後悔に見て見ぬふりをして。
 僕の目も失ってしまえば、杠の悲しむ姿を見なくても済んだのに。
 最低で、不格好で、醜悪にさえもなれない自分勝手な呪いだ。
 ある日、ネットニュースの映像で杠の姿を見かけたことがある。盲目の図書館司書として半生や仕事内容などのインタビューを受けていた。丁寧に、明朗に、声が空気を走るように質問を答え進めていく。
 視覚情報に頼れない以上、杠は人一倍の努力を積み重ねていた。
 文章を読み上げる録音図書で一年間に百冊以上の本を読んだり、健常者と同じかそれ以上の速度でパソコンを扱う。視覚障害者が図書館を利用しやすいように、全国の図書館職員に向けて研修会も開いているそうだ。
 杠のことを知らない人からすれば目が見えないなんて思わないだろう。
 ……いや、杠のことを何も知らないのは僕も同じか。
 視力を失った日から、走ることを絶たれた日から杠は前に進もうとしていた。
 足を頼りにしなくても歩き出せる。それを証明するかのように杠の傍らには白杖が置いてあった。意味も、夢も、願いも足に執着がなくなったのだ。
 僕だけが未練を貪るように、思い出の残るこの街にしがみつく。
 観覧車が回る度に杠のいた街が小さくなる。無邪気に走っていた杠のように、このまま空を飛んで不安もしがらみも、重力すら置き去りにしたかった。
「ねぇ、ねぇ。私達はさ――」
 その言葉の続きを求めて空を探しても、答えなんてどこにもなかった。
 花火の光が街の明かりを消す。始まってもいない夏が終わる。

秋助

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