言って。
ヨルシカ
無名紡戯
「すっかり廃墟になってる」
全身に絡む熱気をうっとうしく感じつつ、記憶を頼りに訪れたかつての遊び場をふらふらと歩く。君の家は第三棟の一番上の階。
学校は違うけど、夏休みに地域でやってるラジオ体操の場所は一緒だった。早起きはかったるかったけど、君に会えるから頑張れた。迎えに行くと、階段の入口に面してる部屋から手を振ってくれて、そして軽やかに階段を降りてくる。それと鉢合わせるまで私は階段を駆け上がるんだ。 ラジオ体操がなくなってからも、私が君の家に行く時はそうやるのがお決まり。そう懐かしさに浸りながら見上げた先の窓はピッタリと閉まっていて、外から見ても埃っぽいのがわかった。
五階分の階段を上る。毎回思うけど、団地の階段ってなんで一段が少し高めなんだろう。久しぶりだから、つんのめりそうになる。
「ついた……」
あの時の少女に還っていきながら、私は休憩だと言わんばかりに階段に腰かける。一気に上ったから呼吸を整えたかった。
夏の湿気を含んだ風は、ちっとも爽やかさがない。ぬるい空気が肌を撫でる。日陰だから余計にじっとりと感じた。現実逃避をするように目を閉じれば、君の記憶がゆったりと巡る。永遠なんて今思えば不確定で曖昧なものを、当たり前に信じてた。君から与えられる全てを栄養にして、私の想いはすくすくと育って。君が隣にいない今だって、思い出を何度でも咀嚼して育ちっぱなし。
当時の私は上手に愛情表現ができなかったと思う。唯一積極的にできたのは、君の手を握ることだけ。それでも君は微笑んで嬉しそうにしてくれたなと思いを馳せる。ほんのり火照った頬の赤と、はにかんだ笑顔が大好きだった。
あの時の私だって、私なりに必死に愛情表現をしていた。君の豊かな愛情表現には敵うことが一度もなかったけれど。……今だって敵わないかも。大きく呼吸をしたら、つんと何かが鼻にしみた気がした。ぎゅっと強く目をつぶってやり過ごす。
「あのさ」
言いながら立ち上がって、チャイムを押す。指を押し付けるとぴーん、と鳴って、それに驚いて離すとぽーん……と音を響かせていく。インターホンみたいに電動じゃないから音がしたんだと、どきどきする胸を落ち着けた。
誰も出ない。人の気配もまったくない。そりゃそうだ、もう解体決定からずいぶん経つんだから。取り壊しが決まって、住人が退居して、ちょっと色々あって延期になって、今。人がいないのが当たり前なほどに時間が流れたし、それがわかりやすく建物の様子で分かる。溜息を一つ、深く吐いた。
「……いい天気」
外を眺める。空は夏らしく青々と広がっている。遠くには白い雲が大きく連なっていて、今日は夕立が来るかなとぼうっと考えた。
空が青くてきれいだねと君が何気なく言った声が思い出せない。言葉は、表情は、こんなにも鮮明に思い出せるのに。君がきれいだと言った青と、私がそうだねと言った青が、同じ青だったのかを知る術はもうない。もっと一生懸命言葉を交わせばよかったと普段は考えないようにしていた後悔が押し寄せる。
「ねえ」
声が緊張に震えている。口に出して実感するのは嫌だった。だからずっと言わないでいたんだけど、もうここに来る機会もないんだから文句の一つくらい言いたかった。握りこぶしをドアに叩きつける。想像以上に大きな音が鳴った。それに引っ張られるように引きつった声が漏れる。
「死ぬなら、死ぬよって言ってよ」
たとえそれが、自殺でも、病死でも、事故死でも。私にだけは言ってほしかったなんて無茶ぶりを吐き出す。今際の刻みにこっそり告げてくれても良かったじゃんか。無理なことだとわかっていながらも、言わずにはいられなかった。
たかが他人。学校も違う、放課後よく一緒にいる子。君の家族が私の名前をちらりと知ってるかもしれないくらいの、葬式に呼んでもらうこともない程度の遠さ。
「私がどれだけ君を好きか、君がどれだけ私を愛していたか、ちゃんと形に残しておかないからこうなるんだよ」
拙い文句を言いながら崩れ落ちる。バカみたいに声が震えていたけれど、それでも泣くまいと唇をかみしめた。あの日々の中で二人、言葉と想いを交わし合ったことも、今私が大事に抱えたままの愛も、絶対に絶対に本物で現実のものだ。けれど、それを証明できるものは何もない。二人だけの秘密だったから、残っているのは私の記憶だけ。たった、それだけ。
だからこそ、事実として私たちの物理的な距離感が存在した。そして、知らされないから実感すらできなくて、ぼんやりとした私が宙ぶらりんになって今日も生きている。
じゃあ、今からあの青に身を投げ出したら逢えるのだろうか。でも、それで君に逢える保障もなくて、何より君がそういうことを嫌っていた。なら、できないな。
ぐるぐる考えながら、未練がましくドアノブをひねる。もちろん扉が開くことはなかった。
「あーあ」
二回目の溜息と同時に脱力。諦めて階段を下りていく。行きよりうんとゆっくり下りるのは、君がひょこりと出てきて「帰っちゃうの?」と言ってこないか期待したから。もちろんそんなことはなかったんだけど。
春が吹き抜け、夏が駆け抜け、秋が過ぎて、冬が去ってを幾度繰り返しても、まだまだ愛は尽きなくて、ずっと君が好きだと思う。君が私を好きなのと同じくらい。いや、もう追い越してしまったかな。
「そう思うでしょ?」
ぼそりと呟いて、君の名前を口の中で転がす。強い日差しの中、痛いほどにひとりぼっち。泣きそうになるのをぐっとこらえる。もちろん返事が聞こえることなんてなくて、
「おおい、そこの君」
君と同じ呼びかけに、私の呼吸と世界が止まる。振り返る。違うとわかってても、希望をもって。
「入っちゃ危ないよ」
そこにいたのは暑いだろうにきっちりと作業着を身にまとった人だった。私みたいに廃墟に入る人がいないようにこの暑い中見回りするのが仕事なんだろう。
ほら、君じゃない。そもそも声で想像ついてたでしょう。君の声はもう思い出せないくせに、まったく違うのだけがはっきりわかる。嫌だな。
「……ごめんなさい、昔近所に住んでて懐かしくて。もう帰ります」
都合よく世界はできてない。へらりと下手くそに笑って、その場を後にした。あの時の少女が私に戻っていくなあと、敷地を跨ぎながら他人事みたいに思った。
誤魔化すみたいに見上げた青過ぎる空へ、私が死ぬその日だけでも君に逢いたいなと呟いた。おまじないみたいに、密かに、けれど強い願いを込めて。
もし叶ったなら、この想いを知りうる言葉全てで伝えて、抱きしめて、もう二度と離さないと誓うだろう。その日が何年先でも、何十年先でも、絶対にそうするんだ。
ねえ、でもさ。私は、やっぱり。
「もっと」
その先は独り言だとしても、口に出したらとうとう涙がこぼれそうだったから言えなかった。ぐっと顔に力を入れたまま振り返る。来た道の先にぽつりと、思い出の場所が先ほどと何一つ変わらないままたたずんでいた。暑さでゆらゆらしている空気に包まれてるそこは、来た時よりもうんと遠く見える。
それが寂しくて仕方なかったから、最後にもう一つくらい、負け惜しみのように、悪あがきのように、ねだるくらいは許されるだろう。
「……君が言ってよ」
返事はやっぱりないから、蝉時雨が私の代わりにないた。