夜に駆ける
YOASOBI
星伊香
屋上のフェンスの向こう側に立つ君の表情が、夕日のせいでよく見えない。
体を縁取られ、後光が差すようにシルエットを浮き彫りにした君は、まるで神様みたいだった。
「来たんだ」
「……あんなLINE来たら来るでしょ」
君は安堵とも落胆ともとれる息を吐いた。
慎重に近づき、フェンスに手をかける。両足をかけるとガシャンと大きな音が鳴った。
上の方に返しがついているものの、フェンス自体はそう高い訳じゃない。これなら登れると思ったが、実際に上り始めるとすぐに指が痛くなった。君はどうやって向こう側にいったんだろう。体重が軽いから、僕より身軽なんだろうか。
フェンスを跨ごうとしたその時、強く風が吹いた。手が滑り、真っ逆さまに落ちていく自分の姿が脳裏に浮かぶ。
グランドに叩きつけられた身体。
残っていた生徒の悲鳴。
集まる教師。
野次馬。
現実と幻覚に揺れる視界の端で、僕を見上げる君と目が合った。僕を通り越して何か別のものを映す、ガラス玉のような視線。どれだけ言葉を重ねても、心を砕いても、何も響いていなそうな目。
もう一度勇気を振り絞り、フェンスを越える。なるべく下は見ないように、しかし焦らないように確実に君へ近づいていく。足が地面につくと、やっと生きている実感が持てた。
胸を抑えながら呼吸を整える僕に、君は「頑張ったね」も「ありがとう」も言わず、まっすぐグラウンドを見下ろしていた。オレンジが多かった空はもう半分くらい濃紺に変わっていて、だけど君はまぶしそうに目を細めている。
初めて会った日の事を思い出した。君は新学期の窓際の席で、誰とも喋らず外を見ていた。笑い声と生命力に満ちる教室の中で、儚さをまとうその姿に一瞬で心を奪われた。
君はあの頃からずっと変わらない。誰にも触れさせず、誰のものにもならなかったその頃と。
風が頬を撫でる。
「僕が一緒にいるから、だからやめよう?」
片手はしっかりとフェンスを掴み、もう一方で君の手を取る。きっと長い事屋上にいたんだろう。君の手はすっかり冷たくなっていた。
「もう疲れちゃったの」
君はそうぽつりと零し、また黙り込んだ。有無を言わさない物言いに、心がざわめく。
「あのさ、君の気持ちは僕にはわからないかもしれないけど…」
言いかけて、言葉に詰まる。頭の中で色んな考えが浮かぶのに、上手く言葉にならない。言いたい事はあるのに、それを見つけられない。
それでも心の中で言葉を探し続けた。だけど探しても探しても、全部陳腐に感じる。
「……でもさ、こうして呼び出してくれれば、どこにだって迎えにいくよ。何時間でも話しを聞くし、してほしい事だってなんでもしてあげる」
君は深くため息をつき、頭を振りながら言った。
「もうそういうのいいから、やめてよ」
「僕はよくないよ。よくないからここまで来たんだし」
「違うでしょ。和葉はどうせ、いい人で居たいだけでしょ」
「そんな事ない。君が大事で……好きだから、だから」
風が一瞬、止まったような静寂が広がる。
君は僕の手を乱暴に振り払った。
「嘘言わないでよ!」
表情を堅くした君の瞳に、混乱と疑念が入り交じる。
君の視線から、僕の気持ちが一切通じていないことは明白だった。
「絶対じゃない事言わないで……! 一生一緒に居てくれないなら近づかないで! もう嫌なの!」
取り乱した君がかぶりを振る。その拍子に、身体がぐらりと外に向けて揺れた。慌てて手を差し出すも、君は全てを拒絶するように僕を睨みつける。
「みんな嫌い! 先生もお母さんもお父さんも、クラスの人たちも、和葉もみんな……大っ嫌い!」
息つく暇もなく捲し立てた君は、荒い呼吸を繰り返したあとその場にへたりこんだ。
おろせばいいのか差し出せばいいのか分からなくなった手が、中途半端な位置で止まっている。頭の中がふわふわして、自分の身体じゃないみたいだった。ここに居るのに居ないみたいだ。
ふと、君を見下ろしていることに気づく。君は泣いていた。自分の身体をぎゅうっと抱きしめ、痛みに耐えるように小さく体を縮めている。
さっきまで神様みたいだった君は、まるで生身の人間みたいだった。
「……僕だってもう、終わりにしたいよ」
思わず口から漏れた言葉に、慌てて口を塞ぐ。
顔をあげた君は目を丸くして僕を見た。
「終わり?」
君が静かに問いかける。僕は躊躇った後少しだけ頷いた。言葉にはできない複雑な感情が心の奥底で渦巻く。
「本当はもう、学校だって来たくない。勉強ももうしたくないし、期待に応え続けるのは疲れた」
吐きだしているうちに、目が潤んできた。涙が止まらない。恥ずかしい。だけど想いを一つ吐き出すたびに、頭の中にかかっていた霧が晴れていく。
「本当はずっと、僕もそうだよって言いたかったんだ。だけど僕が投げ出したらいけないって思って、ずっと」
夕日はとっくに落ちていて、だけど暗闇に慣れた僕の目に君の表情は良く見えた。
「……私だけなのかと思ってた」
そして、君は微笑んだ。その笑顔は暗闇に浮かび上がる月のように、僕の心に光を灯すようだった。
フェンスを強く握っていた僕の手に、君の手が重なる。
「大丈夫、二人ならきっと」
白くなった僕の指の間に、君は自分の指を滑り込ませた。君の手は暖かくて、体温を分け与えられたように感じる。
フェンスを離し、君の手を取った。
視線を上に向けると、いつの間にか暗くなった空に星が瞬いていた。汗と体の熱を醒ますように、涼しい風が僕らの間を通り抜けていく。
少し体を傾ければ空に投げ出されるその場所で、君は立ち上がった。
「手、離さないでね」
どちらともなくそう言って、僕らは二人で笑った。