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少年時代

井上陽水

華紗

 

 目が覚めると深夜2時だった。エアコンもつけず、窓を開け放ったまま眠っていたせいか、やけに汗をかいている。セキュリティが低すぎるこのボロアパートに住んで5年が経つけれど、一度も泥棒にはいられたことはない。すすけた外観から、泥棒もあえてこのアパートを狙わないのだろう。傍らで寝ていた女も目を覚ました。うすぼんやりとした目で女は
「花火は?」
 と尋ねた。
「花火はもう終わったよ、僕らが寝ている間に」
 女は残念そうな顔をしたが、きっと5分後には忘れるだろう。僕たちは夏を浪費している。
 かつて、僕にとって夏は特別なモノであった。夏休みがあった、というのも大きかったかもしれない。夏祭りや花火に心踊らされ、浮かれて羽目を外したものだ。すべてを美化してしまいたくなるほど、僕の夏は完璧だった。ところがいまや都会の片隅で汗をかいて眠ることでしか夏を感じられない。一体、僕はどこに夏を忘れてきてしまったのだろう。
「アイス買いにいこ」
 女は床に落ちていた服を拾い上げると、そそくさと身につけ始めた。
「こんな時間に?」
「コンビニまで1分だから」
 こういうときの動きはいつになくやけに素早い。すっぴん隠しの帽子を被るとほら、と僕の手を引いた。
 深夜のコンビニはやけに明るく、蛍光灯に群がる蛾の醜悪さが際立っていた。マイマイガだ、と女は指差した。僕にとってはすべて等しく醜い蛾でしかない。女は蝉の抜け殻もある、とアスファルトから拾い上げるとくしゃっと手で潰した。小学生かよ、と言うと誇らしげに笑った。
 僕はもうどのアイスにしようかしか考えていなかったのに、女はきょろきょろと外界を見ていて、夏を感じているのだと気づくと急に愛おしくなった。細い足首や腕を露わにしてコンビニをうろつく姿はまるで女児のそれだった。女はとうに三十路を超えているというのに。
 僕は女の過去を知らない。どんな子供時代を過ごしたかなど、聞いたこともなかった。ただ、たまに会ってはたわいもない話をしながらビールを飲み、気が向けば身体を重ねる関係だった。それがなんとなく心地よかったのだ、なまぬるい関係だ。
「あたし、アイスの実にしようかな」
「ハーゲンダッツ買ってやるよ」
「いや、いらない。アイスの実」
 女はそう言って冷凍ケースに手を伸ばした。僕は思わずその細い手首を掴んだ。
「え?なに?」
「ねぇ、僕ら結婚を前提に付き合わない?」
 女はキョトンとした後、けたたましく笑った。
「え?うそ?いま言う?このタイミングで?」
 僕は急に恥ずかしくなり、おし黙った。
「いいよ、結婚を前提に付き合お」
  女はそう言うと、コンビニの店内だというのに僕にくちづけた。
「夏だなぁ」
 女はニカっと笑い、レジに向かった。店を出ると生温い夜風が頬をなでた。
「指輪あげよっか」
「気がはやいよ、馬鹿」
女は笑いながらも嬉しそうだった。僕は長すぎた少年時代の終焉を感じながら、か細い手を握った。

華紗

​星伊香@hoshiika_yuri

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