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青と夏

Mrs. GREEN APPLE

マリボー

 

 塾の夏期講習に向かう途中、駅のホームの日陰から一歩足を踏み出した途端に汗がぶわりと吹き出して、ため息を吐いた。
 熱気で眼鏡が曇るので、一度外してワイシャツの裾で拭う。目の端に黄色いひまわりが映ったのを、無関心に通りすがろうとして。
「ゆうた!」
 ちりん、と風鈴の音に重なって、快活な声に呼び止められる。
 慌てて眼鏡をかけ直すと、先程ひまわりだと思っていたのはボサボサの金髪頭の男だった。日焼けした顔でにかりと笑みを浮かべて手を振るそいつの名前が、意識する前に口をついて出る。
「ヒロ」
 自転車を押して来るその男は、俺の親友――三年前、中学二年の夏に転校していった大場 裕貴(おおば ひろき)だった。
「久し振り」
「なんだよ、いつこっちに来たんだ?」
「いや~、夏休みになってからすぐ来ようとしたんだけどさあ。金欠だからチャリで来ようとしたら今までかかっちった」
「マジで?!」
 ふは、と思わず笑みが漏れる。親から聞いた転校先はいくつか県を跨いだ場所で、とても自転車で気軽に来られる様な距離ではない筈だ。
「なあ、今何してんの?」
「何って――」
 これから夏期講習だ、と言おうとして口ごもる。
 ちらりとヒロが乗ってきた自転車に目を走らせると、少し錆の浮いた黒いママチャリはここまでの旅程を物語る様に埃を被っていた。
「暇なら、ちょっと付き合わね?」
 くい、と親指で荷台を示すその言葉に背中を押されて。
「行く」
 空があまりにも青くて綺麗だから。
 俺は、人混みに逆らってその一歩を踏み出した。

 
 ぎし、ぎし、と自転車のスポークが二人分の重みに耐えかねて鳴る。
「ぐおおおお……!」
「おら、頑張れー」
 山道を必死になって漕ぐヒロのTシャツの背中には、びっしょりと汗が滝の様に染みている。俺は荷台に腰掛けて、タイヤの脇に足をかけながらひひっ、と笑って声をかけた。
「ゆうた、も、代われよー!」
 ふがふがと荒い鼻息を吐いてヒロが泣き声を上げるのを、へいへいと頷く。
「この坂が終ったら交代な」
「くっそー!」
 ポタポタと額から汗が滴って、アスファルトに染みを作った。
「つうか、どこ行くんだよ」
「んあ?」
 まだ行き先を聞いていなかった事に気がついて問いかけると、ヒロは間の抜けた顔で振り向く。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてねえよ!」
 憮然として頭を振ると、あっさりとした答えが返って来た。
「海だよ」
「えっ」
「水着ギャルを拝んで来ようぜ」
 にっと笑って言われて息を飲む。
 ぎゅっ、と荷台で拳を握りしめた。
 嘘だろ。
 ……そんなの。
「最高じゃねえか……!」
「だろ?!」
 俺の脳裏に一気に青い波しぶきと水着ギャルの姿が浮かび上がった。健康的に焼けた肌に白いビキニ、いやスレンダーな黒のワンピースも捨てがたい。スポーティなタンキニもいいな。ワンショルダーにオフショルダー、ハイレグのお姉様だっているかも知れない。
 あわよくばお近づきになって、ひと夏のアバンチュールもあり得るだろう。
 夏、最高!
「代われ」
「えっ」
「こんな所でモタモタしてる場合じゃないだろ」
「ゆうた……!」
 フッ、と笑いかけるとヒロは口元に手を当てて目を潤ませた。がっしりと力強い握手を交わす。
 運転を交代してサドルに座り、ペダルに足をかけた。
「行くぞ」
「ああ」
 ぐん、と力を込めてペダルを踏むと、ゆっくりと自転車が前に進む。ヒロが荷台ごと後ろを押して、ぐんぐんと坂道を登り進める。
「うおおおおお!」
「おあああああ!」
 汗が、先程とは比較にならない程に流れ落ちて行くけれど、今はそんな事を気にしてはいられない。
 俺達の行く手には、水着ギャルがいる。
 そんな希望と夢を抱いて、俺達は必死になって自転車のペダルを漕いだ。
 
 
 山道を必死になって超えて、峠を過ぎれば後は下り坂だ。
「いやっほうううう!」
「待ってゆうた早いはやい危ないってえええ!!」
 うっかりテンションが上がり過ぎて事故りそうになりつつも、途中のコンビニで休憩を取って、交代でひいはあ言いながら延々とチャリを漕ぎ続けて数時間。
「おっ」
「おおお」
 流れて来る風に潮の香りがして、山道の間からちらほらと水平線が見えて来て。
 興奮しながら更にペダルを漕ぎ続けて。
 ついに。
「「着いた~~~~!!!!」」
 念願の、海水浴場に到着した。
 浜辺の駐車場の片隅に自転車を停めて、荷物もそこそこに砂浜に降り立つ。
 見渡す限りの海、海、海。
 砂浜にはそこここに、露出した水着姿のお姉さん。
 隣のヒロと顔を見合わせて、同時に破顔した。
「「っしゃああああ!!!!!」」
 ガッツポーズを決めて、ぽいぽいと乱雑にシャツとズボンと靴と靴下を脱いでその辺に放り出す。
「「海だあああああ!!!!」」
 パンツ一丁で俺達は、目の前の海に向かって突進した。
 満面の笑みで波打ち際に踏み出したその時。
 ポツリと水滴が空から落ちてきて。
 次の瞬間、ドザーーーー、とすごい勢いで滝の様な大雨が流れ落ちてきた。
 ピンポンパンポーン、と軽い音のアナウンスがビーチに流れる。
『臨時ニュースです。現在この地域に大雨洪水注意報が発令しました。危険ですので直ちに海から上がって陸に避難して下さい。繰り返します……』
 周囲のビーチに居た人達は、慌ててパラソルや荷物をまとめて引き上げにかかっている。
 その中で、俺達は海に入ろうとしたポーズのまま土砂降りの雨に打たれて、砂浜に膝をついて地面を強打していた。
「「っ何でだよ!!!!!」」
 魂の叫びを咆哮しても、雨音にかき消されて聞いている人は誰もいなかった。

 
 仕方なく最寄りの海の家の軒先で雨宿りさせてもらって。
 土砂降りの大雨は、しばらくするとやや小雨になり、夕方になるとすっかり晴れてしまった。
 とはいえこんな時間から海に入ろうとする客もおらず、俺達も店じまいすると言う店主のお婆さんにお礼を言って、貰ったタオルを手に自転車を回収した。
「こっからまた帰るのかよ……」
「言うな」
 はああ、と重いため息を吐くヒロにこちらもげんなりして肩をすくめていると。
 プァン、とクラクションが鳴らされて軽トラがすぐ横に止まった。
 先程の海の家のお婆さんから頼まれたのだという人の良さそうな男は、これから配達に行くそうだ。
 途中までで良ければ乗せてやるという申し出に顔を見合わせて、俺達は一も二も無く頭を下げた。
「「お願いします!!!!」」
 早速軽トラの荷台に自転車とヒロを積んで、俺は助手席に乗せて貰う。
 自転車で何時間もかかった距離は、車で走るとあっという間で。二時間ほどで、軽トラは俺の自宅近くの最寄り駅まで運んでくれた。
「お前ら。今回は運が良かったども、もうこんな馬鹿すんでねえぞ」
 日焼けした顔で苦笑する男に礼を言いながら頭を下げて、助手席から降りてヒロと交代する。
「じゃあな」
「ん。またな」
 拳を握って突き出すと、心得た様子でヒロががつん、と拳を当ててくる。
「またリベンジしようぜ」
「ああ。次は連絡しろよ」

 何故か鼻の奥がつんと痛む。
 妙に寂しい気分が襲ってきて、泣きそうになるのを必死に堪えていると。
 ヒロも泣くのを堪えた変な顔をしていて、俺達はふはりと吹き出した。
 どこかで見たと思ったら、中学二年の夏の、別れた時と同じ表情だ。
 
「またな!」
 
 いつか、大人になったら。今日の事も忘れてしまうかもしれない。
 それでも。
「……忘れねえよ」
 この夏の、熱くて馬鹿馬鹿しい一日は。
 いつだって胸を焦がすだろう。

 ずび、と鼻をすすって俺は、遠ざかるトラックの灯りに向かって宣言した。
 

マリボー

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