ミュージック・アワー
ポルノグラフィティ
星 伊香
八月最後の週末だというのに、まだまだ太陽は翳りを見せない。天気予報によると、十月まで暑さが続くらしい。
そのせいだろうか。熱海に行く道路はびっくりする位混んでいた。高速から降りてしばらく走る事は知っていたが、まだバイパスまでも辿り着いていない。ハンドルに体を預けるようにして前の車を見つめていると、助手席に座っている瑞樹が「もー疲れたぁ」と言いながら大きく伸びをした。
「ねぇー、まだ着かないのぉ?」
「お盆明けだし、もうちょっと道空いてると思ったんだけどね」
「疲れたー! 早く海入りたーい!」
「もうクラゲがいるからガッツリ入るのはやめた方がいいと思うけど……」
「やだ! 入るぅ!」
子供のように唇を尖らせる瑞樹を笑いながら、葉月はオーディオのボリュームを上げた。お便りを読んでリクエスト曲を流すよくあるラジオ番組だが、葉月はこのDJの声が好きだ。顔すら知らない彼の話に、何度共感と感心をしただろう。
「あはは、可愛いねぇ」
急に笑いだした瑞樹に、ルームミラーから視線を送る。
「何が?」
「ボリューム上げたの葉月なのに、聞いてなかったの?」
「ごめん、ちょっと考えごとしてた」
「もぉー!」
くるくると表情が変わる瑞樹は一緒に居るだけで楽しい。太陽のようでもあり、台風の目のようでもある。初めて出会った高校の時から、それだけは変わらない。
賑やかな教室の中において、葉月は決して目立つタイプではなかった。深夜ラジオを聞いたり、教室で本を読んだり、どちらかと言えば根暗なタイプだ。一方瑞樹は派手なグループ。今となってはどうして仲良くなったのか思い出せない。
だけど話しかけてきたのは瑞樹からで、遊びに誘ってくるのも瑞樹からだった。それから高校を卒業しても、大学を卒業しても、瑞樹はずっと葉月のそばにいる。
交友関係の薄い葉月にとって、瑞樹は全てだった。就職して家を出るという話をした時に「じゃあ私も」と、とんとん拍子にルームシェアをする事になった時の気持ちたるや! 就職したら疎遠になってしまうのだろうかと怯えていた葉月にとって、願ってもない展開だった。だから瑞樹に誘われたら、それがどんなに気乗りしない提案でも断らない事にしている。つまらないと思って同居を解約されるのは、財布以上に心に痛い。
だから当然、今回海に行きたいと言い出したのも瑞樹だった。表向きの理由は「葉月が夏らしい事してないから」だったが、瑞樹が先週テレビのハワイ特集を熱心に見ていた事を葉月は知っている。ハワイに行きたいと言われたらどうしようかと思ったが、瑞樹は夢見がちなリアリストだ。非現実的なハワイよりも、現実的な熱海に夢を見出してくれる。そして似たような理由で去年の秋は山梨へぶどう狩りに連れ出され、今年の春は井之頭公園に桜を見に出かけた。瑞樹と暮らし始めてからというもの、こもりがちな葉月の一年に四季が追加されたのは言うまでもない。
「葉月はなんか最近いい事ないの?」
「いい事?」
「会社とか取引先にいい人いないの?」
葉月は黙ったあとで「ないなぁ」と答えた。
「えー! 本当に? 高校の時からずっとそう言ってるけど、葉月って恋愛興味ない系?」
「無くはないけど……」
「え!? あるの!?」
「どっちにしろ驚くじゃん」
「いやだって……見て葉月!! 外!」
山を抜けて右手に見えた海に、瑞樹がはしゃぐ。瑞樹が助手席の窓をいっぱいに空けると、風と共に潮の香りが車内に入ってきた。風に踊らされる瑞樹の髪から、自分と同じシャンプーの匂いがする。
まるで海が見えるのかを待っていたかのように、ラジオから音楽が流れだした。夏にぴったりの、爽快感のある曲だ。
「あっ! 懐かしい~!」
窓の外に顔を出していた瑞樹が、風で乱れる髪をかきあげる。この曲は瑞樹から借りたベストアルバムの一曲目に入っていたから、葉月もよく覚えていた。瑞樹の好きなアーティストでもなければ、イントロが流れてすぐ分かる程に聞きこまなかっただろう。
「曲って忘れないもんだねぇ」
「昔よく聞いてた歌って、久しぶりでも歌えるよね」
「ねー! 最近の曲ってすぐ忘れちゃうのに不思議だよね」
けらけらと笑っていた瑞樹は、ふと何かを思い出したように後部座席に身を乗り出した。そのままごそごそ荷物を漁り、向き直る。瑞樹の手にあるのはぺしゃんこの浮き輪だ。
「いやいや、だから海には入らないって!」
「はいる! 絶対はいる!」
「着く頃には昼過ぎだってば」
葉月の必死の制止も空しく、あっという間に小さい浮き輪とビーチボールが出来上がった。車内が一気に狭くなったが、瑞樹は機嫌が良さそうだ。膨らました浮き輪を首にかけ、スマホをフロントミラーギリギリに近づける。
「はい、葉月ピース!」
「運転中だから見れないって」
「じゃあ前向いてていいから、ほら、ピースして!」
片手でピースサインを作り、前を向いたまま笑顔のようなものを作る。
「ふはっ、葉月変な顔」
「写真苦手なんだって」
「これストーリーあげていい?」
「やだ、絶っ対にやだ」
「はいはい。じゃ、ラインにアルバム作っときまーす」
しばらくしてポケットの中でスマホが震えた。アルバムを作り終えたらしい瑞樹が、助手席の窓を閉める。
「楽しいなぁ」
噛み締めるような言い方に、思わず瑞樹の方を見る。瑞樹は「ん?」と首を傾げ、穏やかに微笑んだ。
「ずぅっとさ」
「ん?」
「ずーっと葉月とこうしていたいなって」
何かを言おうとした所で、ナビの案内音声が流れた。
「あ! もう着く?」
「まだ、あと三十分位かなぁ」
「すぐじゃん! うわぁ、思ったより早かったねぇ。焼きそば屋さんとかやってるかなぁ?」
「もうさすがにやってないんじゃない?」
「えー、食べたかったのになぁ、海の家のごはん」
瑞樹はこうしてはいられないと後部座席にある大きなバッグを引き寄せた。だけどさっき浮き輪を取り出した時とは違い、しばらくたっても上体を後部座席に乗り出したまま戻ってこない。
「危ないから、止まってからにしたら?」
さすがに心配になった葉月が声をかけると、瑞樹に腕を掴まれた。
「ねぇ葉月」
今にも泣きそうな声に息をのむ。
「水着、忘れちゃった……」