残機
ずっと真夜中でいいのに
永井義孝
友達とディナーに行ったら婚約相手がラブホから出てくるところを見てしまった。
浮気は知ってはいたのだ。
式も乗り気じゃなさそうだったし、やけに外泊の仕事が多いし。
(デートを見たの、初めてじゃないし)
まとめて会計してくれていた光里が店から出てくる。このあとどうする? と聞かれているのに答えることができなかった。
光里が私の視線の先に気付いて、ああ、と小さな声を上げた。
「誠二の好きなところ言っていい?」
「どうぞ」
光里はスマホでこの辺りのカフェを調べながら私の言葉を聞き流した。面倒くさそうなその仕草が、今の私には優しい。
「可愛いって言ってくれる。セックスがうまい。顔。収入。記念日はかかさない。家事も文句言わない。私が弱ったときは黙って隣にいてくれる。詰めが甘くてサプライズとかすぐバレちゃうとこもなんだかんだ可愛くて好き」
「でも浮気してる」
そうなのだ。誠二は私を抱きながら浮気する。
でも浮気しているだけで、それだけで、それだけと云えば、それだけだ。
誠二たちは、人混みに消えてしまう前に立ち止まった。
昼みたいに明るい街は、一緒にスマホを覗き込む二人をよく映す。道行く誰かとぶつかりそうになって、誠二が女の子の肩を抱いた。道の端に寄って、笑い合って、またスマホを覗き込む。女の子はスマホと街を見比べどこかを指さしている。誠二は、微笑みながら見つめて、そして頷いた。
私より若くて小さい女の子。可愛いがお仕事なんじゃないかってくらい可愛い。
私を我に返らせたのは、ベースのスラップだった。
私と誠二の間で女性がマイクを握っている。聞き覚えのある曲に、一人、また一人と足を止めた。
「『残機』じゃん、結構上手い」
光里が呟く。誠二が見ていたアニメのエンディングだと思い出した。
誠二と女の子も女性の路上ライブに近寄ってきた。向かいにいる私には気付かず、楽しそうに聴いている。好きな曲だと私に教えてくれたその唇は、隣の女の子に同じ言葉を並べているのだろうか。
気付いたら足が動いていた。
誠二が好き。結婚したいくらい好き。プロポーズが心底嬉しかったくらい好き。
誠二が好きで、好きだから、隣の女が誠二の好きな曲を知るのが嫌だった。
路上ライブはサビ前のワンフレーズ。
ブレス音がマイクに乗ったと同時に誠二が私を見て、そして、私たちはサビに乗って駆けだした。
「誠二!」
女の子を置いて人混みに逃げていく誠二を追いかける。
(そういう人なんだね)
女の子は大きな目をぱちくりさせて私を見た。
あなたは可愛いヒールを履いているから追いかけられないでしょう。
私はラフにスニーカーで来たから、アイツを追いかけられる。
昼みたいに明るい街が誠二を照らし続ける。必死な背中を私は追う。人混みは私を避けて誠二までの道を作った。誠二が角を曲がる。ビジネス街に続く道に入ると途端に明かりが少なくなった。
夜風に心地よさすら感じる。
私が手を伸ばす。誠二は、体力はあってもフォームが悪くて足が遅い。そういうところも好きだったから、誠二より運動できないふりをしていた。ゴールテープを切ったことしかなかったけれど、そう見せたかった。
私の指先が誠二の背中を掠める。驚いた誠二は足を凭れさせてみっともなく転ける。
転がる誠二を仰向けにして、私は馬乗りになった。
「み、美香」
「誠二、私ね、誠二の足が遅いところも好き」
「ごめん、あの子とは別れるから」
「本当?」
ぜえはあ息を漏らしながら、何度も大きく頷く。
よかった、誠二の天秤はまだ私に傾いている。
それが嬉しくてたまらない。
「別れよ」
誠二は私から目を逸らした。返事を聞かずに立ち上がる。
振り向くと、追いかけてきた光里と女の子が私たちを見ていた。
光里は私にスマホを見せる。マップアプリがカフェの場所を示していた。
「次、ここでいい?」
「……ラーメン食べたい、濃いやつ」
「いいねえ」
光里が調べてくれている間に、私は女の子に話しかける。
意地悪く、婚約指輪を見せた。
「こういう人だよ」
近場に家系の店があるらしい。随分小さくなった胃袋だけど、今日はいくらでも食べられる気がしたし、今日より美味しい日も無いと思うのだ。
午前中の書類を片付けて、同僚より少し遅れて昼食に向かう。
たまたま光里が私の職場近くに来ていて、ランチに誘ってくれていた。
事務所を出ると、光里が迎えに来てくれていて「おつかれ」と片手を上げる。
「準備は順調?」
「順調だよ。証拠も溜めておいたし」
「さすが弁護士」
婚約だろうときっちり頂く予定だ。お金より腹いせしたい気持ちのほうが大きいのだが、悟られないように同僚の前ではしおらしくしている。
どこに行こうかと話していたら、人だまりを見つけた。
路上ライブをやっているらしい。リクエスト募集と描かれたスケッチブックが足下に立っていた。
マイクを握る女性に見覚えがある。私はつい手を上げて、曲名を叫んだ。